自分は人と比べて涙もろい人間だと思う。一緒にテレビ番組を見ているメンバーの中で,自分だけが涙目になっていることは,これまでにもよくあった。結構恥ずかしい瞬間のため,気づかれないようにする努力をいろいろと重ねてきた。
そっと指で涙を拭うことは基本として,さりげなく人より前に出て顔が見られないようにしたり,目を大きく開いて涙をこぼさないようにしながら涙が乾くのを待ったり,飲みたくもない水を飲みに行って涙を拭いたりと,密かに手段を講じてきたものだ。
そもそも,泣くことが好きなのだ。涙を流すことができるコンテンツを求めて積極的に関わろうとしている節がある。涙することで得られるカタルシスを味わいたいのではないかと思う。
これまでに涙した数々の感動場面を思い返すと,自分にとってのツボが存在していることに思い当たる。それは,様々な物語で装いを変えながら繰り返される,人を感動させるための基本要素でもあると思う。
以下は自分の「泣ける」シチュエーションである。念のために言っておくとこれらの要素が入っていれば必ず泣くというわけではなく,ストーリー展開の中で,これらの要素に共感・共鳴をさせる作者の構成力や演出が必須であることは言うまでもない。
1 思い入れのあるものが死ぬ
これは,泣きの王道だろう。泣かせるためには一瞬で死んではいけない。死がそこにある状態で,エピソードを回想したり,本心を吐露したりすることを通して,聞き手を揺さぶる「何か」を残して死ぬ必要がある。
もしも,死んだことから始まる場合は,第三者のていねいな回想によって,死するものの生き様や本心が描写されることが求められる。
ここでいう「何か」は,2以降の感動要素を含んだもので「視聴者・読者」が共感していることがどうしても必要である。逆説的だが「デスノート」の主人公は,敗北のフラグが立ってから死ぬまでに多くの語りや回想があるが,死んでも泣くことはない。
2 かわいそう過ぎる
これもストレートな泣きだろう。死ぬ場合もある。
例えば,「火垂るの墓」。兄妹二人で力を合わせ,必死に生きようとしていた最中に訪れる妹の死。大切に守ってきた妹が死んでしまった後の兄の喪失感が,実感を持って迫ってくる。また、兄を慕い,共に生きようとした健気な妹の死は無条件に切ない。
「フランダースの犬」のネロとパトラッシュの最後もこのタイプである。
どちらの作品も死がやってくるが,かわいそうの中心は死ではない。「フランダースの犬」で言えば,落ち度のないネロが,町の人々の迫害を受け,行く場所もなく,一人教会で死ななくてはならないという理不尽さがかわいそうなのである。
「1思い入れのあるものが死ぬ」の場合は,かわいそうである必要がなく,そこが1と2の大きな違いとなる。
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